「ギリギリの女たち」(小林政弘監督)観てきました(ネタばれ注意)2012/08/11 20:16

  梅田シネリーブルに小林政弘監督の最新作「ギリギリの女たち」を見に行ってきました。

  映画を観るのは2年に1回くらいです。この前観たのは元町映画館で今年6月にリバイバル上映してたピンクフロイドの「The Wall」、その前がマイケル・ジャクソンの「This is it」、その前は「高田渡的」でした。われながら実にわかりやすい映画嗜好ですよね・・。もちろん小林監督がシンガーでもあることは知っています。

 映画は、気仙沼の実家にかつて一緒に暮らしていた三姉妹が震災をきっかけに久しぶりに帰ってくるという設定でのお話のようです。
 見始めた最初から、私にはなんだか人の家の出来事をのぞき見しているような気分でした。普段から映像の美しすぎる映画は嘘っぽくて苦手なんですが、この映画は生活している時の私の目に見えるとおりの映像で淡々と進んでいくのでそこがリアルで気に入りました。ごく普通の家に、ごく普通の感覚の人達がいて喋っている感じ。まあいろいろ事情もあるだろうし、感情的になったり、優しさを見せあったりと、普通の姉妹のお話として見始めました。コメディだねという意見も多かったようですが、特にそんなこともないのではと思いました。ほとんどの人生なんて少し視点をずらせばみんなコメディでしょという意味ではコメディなんでしょうけど。

 でもどういうわけか、観ているうちに、だんだんと 長女=お父さん、次女=お母さん、三女=子供 みたいに見えてきます。それぞれが喋っている内容や立ち振る舞いがそんな感じなんですよね。かつて三姉妹で生活してきた過去から、そういった役割が自然に割り振られてしまったのかもしれないなあなどと思ってしまいました。3人が一度ばらばらになっていた時の話が三人の数日の生活の中で明らかになりますけど、その話を聞いても長女は男性的な生き方だし、次女はどちらかというと女性的な生き方、三女は子供としての自分を強く意識した生き方でした。

 映画は、気仙沼という震災で大きな打撃を受けた場所が舞台になっているのですが、何カ所か震災と津波の被害を受けた場所のの映像が出てきます。地震で道自体が低くなり海が道の上に被さって来ている映像、家がなくなりコンクリートの基礎部分のみが剥きだしになっている映像、震災や津波の影響をあまり受けなかったなつかしい学校の校庭。こういった風景を背景に次女が様々なことを語ります。気仙沼の震災後の風景が彼女の心象風景でもあるのでしょう。一方、男性の象徴のような長女は、朝、壊れた港に出て登る太陽を感じながら踊る人です。でも、おそらくは彼女にはもう現状を認識する力も再生へと向かう力もなさそうです。

 人生でそれぞれ追い詰められた3人の女性の中で最もタフなのは一見弱く見えとても女性的なタイプの次女であるということが物語が進むにつれ次第にわかってきます。彼女だけに過去を何もかも捨て去って一からやり直す意思がある。それは女性の持つ本能的な力なのだと物語は教えてくれます。

 この映画で最も印象に残ったシーンは、次女が、何度も津波で家を流されているのになぜ人は同じところにまた家を建てるのかと疑問に思うけど、なんとなくその理由がわかるような気がすると語るところでした。
 残念ながら根無し草として生きてきた私にはその理由をはっきりこれと言うことができないのですが・・。非常に強く印象に残りました。しばらくこの答えは何なのか考えてみたいと思います。

面白い映画でした。

 梅田シネリーブルの入り口、なんか暗い。節電の夏って感じです。ここから入って3Fまでエスカレーターで行きます。



小林政弘監督が西条八十の詩「金糸雀」に作曲して歌った歌。
素晴らしいので聴いてみて下さい。
YOUTUBE かなりあ「ギリギリの女たち」より
http://www.youtube.com/watch?v=KP_Mn0Cg-ww




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